吉高 叶 先生 礼拝メッセージ 2018年3月18日(日)
私は、小さい頃から「神様を讃美する音楽者になる」ことを目標として、学んできました。音楽学校に学んだ時代、音楽のテクニックは高くなりましたが、心の中には、大変な傲慢と曖昧さとが住みつくようになっていました。クラスメイトたちとの競争、人の失敗を喜ぶ心。そんな思いに捕らえられながらも、口では「神様を讃美する音楽を」と平気で語り続けたのでした。 神様は、一つの出会いを通して、そんな私を砕いてくださいました。瀬戸内海に浮かぶ大島は、ハンセン病患者の療養施設として知られています。その大島に霊交会というプロテスタント教会がありますが、その教会の礼拝に出席した時のことです。突然の依頼に応えて奏楽の奉仕をすることになった私は、大島のクリスチャンたちの礼拝する姿に非常にショックを受けたのです。 それは、ハンセン病の後遺症により無くな ってしまった指で、必死で聖書や讃美歌のページをめくる大島の信者たちの姿であり、目が不自由でも讃美歌の歌詞を丸暗記して、身体をゆすりながら天を仰いで大声で歌うその力強さでした。私のスムーズに動く指と、彼らの不自由そうな手とではどちらが本当の意味で神を呼び、神を求め、神を讃美しているのだろうか。私は、今まで彼らのように、あれほどまでにいとおしそうに聖書のページをめくったことがあっただろうか。私はこれまでの間、誰を讃美し、何を誇ってきたのか・・・。その日のショックと問いかけは、いつまでも私の心の中で響き続け、ついに私を神学校の門へと導いたのでした。 私は、幼い頃からスローガンにしてきた「神を讃美する者になる」ということを清算し、総括するために神学校に進み、そこで学び直しました。人より秀でたものが賜物(たまもの)なのでしょうか。神様が喜ばれる献げ物とはいったいどのようなものなのでしょうか。 |