大阪市平野区平野東4−4−13

メッセージ


 毎日曜日に平野バプテスト教会で行われる「礼拝メッセージ(説教)」の要旨を掲載いたします。

 「心を高くあげよ」
■2025年9月7日(日)    松坂 有佳子 牧師
■聖書:詩編 143編1〜6節
 *SURSUM CORDA = (ラテン語)心を高くあげよ

 詩編143編は「悔い改めの詩編」(他には6、32、38、51、102、130)と呼ばれるものです。しかし自分の罪を告白し、その赦しを乞う、「悔改め」というイメージはありません。詩人は「あなたの僕を裁きにかけないでください」(2節)と、ヨブのように自らの正しさを主張して争ったりはせず、「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(2節)と潔く白旗をあげています。そしてまるで幼い子どものように神を呼びます。詩人は自分の中にあるものを根拠とすることをやめ「あなたのまこと、恵みの御業に」(1節)にこそその力があるのだと神に全幅の信頼を寄せているのです。詩人にはもうそれしか残っていないのかもしれません。

 この「まこと」という言葉は「エムーナー」という単語で「アーメン」と同根です。「恵みの御業によって」の「恵みの御業」と訳されている単語は「ツェダカー」です。新共同訳以外の聖書では「義」とか「正義」という訳で統一されていることが多い単語です。詩人は自分に襲い掛かる絶体絶命のピンチを救いうるのは、「神のエムーナー(真実)と神のツェダカー(義)」しかないと信じているのです。

 改めて詩人は共同体の歴史に目を注ぎます。「わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。」(5節)自分の経験だけでなく、先祖たちの物語をひとつひとつ紐解き、追体験してゆきます。神の真実と神の義が先祖に与えた「御手の業」はどんなだったか。味わい直しながら、今のわたし・わたしたちに必要な力に焦点を合わせていくのです。

 「あなたに向かって両手を広げ」(6節)とは祈りの姿勢です。エジプトを脱出して間もない頃、イスラエルの民はアマレク人に襲われ、初めて戦争を経験しました。その時モーセは丘の上で祈りの手を上げました。アロンとフルに脇から支えられながら、祈りの手を上げ続けました。いにしえの物語に語られている神の真実と神の義は、今まさに渇いた大地のようなわたしたちの魂を潤す雨となって降り注ぎます。神は神に信頼して祈り求めるしかない者を決して見捨てられません。聖書は神に全き信頼を寄せることを「悔改め」と呼ぶのです。
 「ハナミズキ」
■2025年8月31日(日)    松坂 有佳子 牧師
■聖書:申命記 34章1〜12節

 モーセはピスガの頂から約束の地を望み見ました。目の前には乳と蜜の流れる約束の地が広がっています。リーダーとしての務めをヨシュアに手渡し、愛するイスラエルの新しい営みをまぶたと心に映し祝福を祈りつつ、自らの命を今まさに神にお返しします。目もかすまず、活力もうせず、民の信頼も厚い120歳のモーセの最後の仕事です。

 物心ついてからずっとこの場面を読む度に、さまざまな思い巡らしをしてきました。神さまはなんて意地悪なんだろうと思って文句を言いたくなったり、遊牧から定住へと生活スタイルが変化するタイミングでの引き際の美学のようなことと捉えてみたり、身近な家族の老いや死に接して手渡されたバトンの意味を考えさせられたり、そもそもゴールにだけ意味があるのではなく、プロセスの中にある恵みにフォーカスする大切さを考えさせられたり…

 「隠居したモーセは約束の地で幸せに暮らしましたとさ」ではない物語がわたしたちの中に問いかけてくることを受け止めて、それぞれが思い巡らし、またそれを分かち合うことはとても大切です。

 わたしは教会の歴史を学ぶ中で、男女同権と言われるようになるずっと以前から、人生を神に献げようと、神学部に籍を置いた女性の先輩が常にいたことを知りました。女性であるだけで「神学を学んでも、生かせる職には就けないと思いなさい」と言われながら、到底乳と蜜が流れている地だとは言えないような荒れ野で神に仕える人生を送って来た素敵な先輩たちにも出会ってきました。乳と蜜が流れる約束の地は「見るだけで入れないところ」で、自分は入れないけれど、その地に生きる人たちへの祝福を祈りつつ、荒れ野にいる人たちがいるのです。そんな人たちからわたしたちは祝福を受け取り、今を生かされているのだと思います。

 今、わたしたちの周りにも「見るだけで入れない」ともがいている人たちがいるのではないでしょうか。モーセはそんな人たちに光を当てること、目をこらすことを今も教える役割を神に与えられているのではないでしょうか。
 「何度でも何度でも」
■2025年8月24日(日)    松坂 有佳子 牧師
■聖書:申命記 30章1〜4・11〜20節
 目の前に「祝福と呪い」(1節)が置かれている。「いのちと幸い、死と災い」(15節)「生と死、祝福と呪い」(19節)と言い換えられ、神は「祝福」を選び取るようにと、何度も何度も呼びかける。人はどちらかひとつを自ら選んで生きるものなのだろうか。わたしたちも問われていることなのかもしれない。もちろんだれもが「祝福」を選ぶだろう。「呪い」を選ぶ人なんかいるはずがない・・・それなのに旧約聖書は「祝福」を選ばない民、繰り返し「呪い」を選んでしまう人々を描く。なんと愚かなことか・・・。

 先週立田卓也さんのメッセージに、元米軍海兵隊員のマイク・ヘインズさんが紹介された。彼は、保守的なプロテスタントが多く暮らす米南部ジョージア州マリエッタに生まれ育つ。子どものころから軍隊は最も身近なヒーローだった。すごい!かっこいい!と憧れ、国を守ることこそ、自分の使命と捉え高校卒業後、海兵隊に入隊。海兵隊は新兵たちに12週間の特別プログラムを施す。迷いなく相手を殺害することができるよう、徹底的に叩き込まれるのだ。彼は28歳の時イラク戦争に送られ、多くの民家を襲撃、破壊。「テロリストとの戦争と言われていたけれど、自分がテロリストだった」と彼は語る。女性や子どもたちの泣き叫ぶ声が耳から離れない。情報はうそだった。退役後は加害者PTSDに苦しみ、同じ病で苦しんだ仲間が何人も自死した。

 「愛する国を守ること」を志した若者は、「祝福」を選んでいたはずだった。しかし彼は自分が選んだものは「祝福」ではなく「呪い」だったと気づいた。わたしたちの目は「祝福」を「祝福」と認識できないのだろうか。選びたくないはずの「呪い」を手にしてしまうのはなぜか。

 申命記が語る「祝福」と人が考える「祝福」がズレている。神が叫ぶ愛はなかなか人に届かない。神にとってそれこそが「呪い」。つまりすでに人には「呪い」が選ばれてしまっているのだろう。だから神はそれを手放して「祝福」を選び直すように語り掛けているのだ。だから神は何度でも何度でも立ち上がり呼ぶ。10000回だめでも10001回目が来ることを信じて、今日も。
 「ニコデモの後悔と…」
■2025年8月17日(日)    立田(たてだ) 卓也 さん
■聖書:ヨハネによる福音書 3章1〜15節
 私は現在、日本キリスト教会所属の宜野湾告白教会で礼拝参加させてもらっていますが、元牧師のSさんより開口一番、「沖縄で人間になりなさい」と言われました。それは、故大江健三郎氏が述べるところの「醜い日本人」の再確認でした。

 今日のメッセージは私自身ここ数年の振り返りからです。沖縄移住のきっかけはコロナ危機がひとつで、その渦中にあった、湖北省武漢市の牧師が世界中のクリスチャンへ祈るように求めた公開書簡『(キリストの)平和とは、災いや死が私たちから取り除かれることではなく、私たちが災いや死のただ中にある時に与えられる平和のことです。』

 「災いや死の只中にある」。実は“沖縄”がそのような状況下にあった/今もあり続けていることに、気づきました。コロナ対策を謳ったこの国の政治・政策の “外に置かれていた沖縄”「憲法番外地」でした。しかもそれは、私たちこの国の政治の不作為と差別が原因であり、是正が求められます。

 気づいてしまった以上、私の信仰の在り方は変えられました。家族で沖縄での生活と平和活動をともにさせてもらうなかで、私にとって、神以外何者も神とせず「主に立ち返る」、つまり「もう一度生まれる」ということが迫られます。人間になりなさい、という言葉とも響き合っています。これが今の私の、ニコデモの渇望です。

 ヨハネ書3章で「霊から生まれたもの」ではないと認められたニコデモ、イエス様とズレてしまっています。私たちもそれを経験しています。霊による再生・再創造をここでは理解できなかったニコデモは、イエス様にこう言われてしまいます。11節「あなたがたは私たちの証しを受け入れない。」

 イエス様が見抜いたニコデモの渇望、生まれ変わり・再生・再創造がテーマであったニコデモは、イエス様の埋葬の現場に立ち会います。ニコデモの霊の渇きは満たされたのでしょうか。希望はあります。使徒言行録3:19〜20「だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。」
 「はじめのい〜っぽ!」
■2025年8月3日(日)    松坂 有佳子 牧師
■聖書:申命記 5章1〜5節
 エジプトで奴隷として生きていた人々が自由を与えられ、シナイ(ホレブ)で神と契約を結びました。それは40年前の親の世代の出来事でした。約束の地を目の前にして、改めて自分ごととして「今日」「今、ここで」神の前に立たされ、ひとりひとりが問われています。モーセからバトンを託され、その重みをその手にズシリと感じながら、神の言葉のひとつひとつに生きる道を確める書が「申命記」です。

 わたしたちはこの書物を、戦後80年の、この8月に、聴くよう導かれています。変わっていく時代の状況の中で、託された言葉(掟と法)に、わたしたちを生かす命が記されています。わたしたちも命のバトンをしっかり受け取り、次の時代に責任もって引き継いでいく生き方を学び取っていきましょう。

 「平和学の父」と言われるノルウェーのヨハン・ガルトゥングは、平和の反対は「暴力」であり、「暴力の不在こそが平和である」と論じました。ガルトゥングは暴力という概念を「直接的暴力」「構造的暴力」「文化的暴力」と区分しました。人に直接的・物理的に危害を加える暴力だけでなく、貧困、経済格差(経済構造の不公正)、差別(人種、ジェンダー、宗教など)、環境破壊、人権侵害など、社会の中に構造化されている間接的な暴力や、それらを正当化するために利用される文化の諸側面をも「暴力」として名指ししたのです。

 このように「平和」をとらえ直す時、わたしたちが生きる戦後80年の課題、向き合うべき暴力がわたしたちの周りに、わたしたちの中にもはっきり見えてきます。わたしたちはどこから平和を始め、取り組み、広げていくことができるでしょうか。

 「はじめのい〜っぽ!」鬼が目をつぶっているほんのわずかな隙に、だれかが少しでも前に歩を進め、だれかが鬼に捕まってもあきらめないで、暴力から逃げ出し、自由と平和への道をいっしょに歩んでいきましょう。
 「ロバの目に学んで」
■2025年7月27日(日)    松坂 有佳子 牧師
■聖書:民数記 23章1〜12節
 民数記22〜24章には、モーセも、ヨシュアも、祭司職をアロンから引き継いだエレアザルも、イスラエルの民も登場しません。ここには他民族のふたりとろばが登場し、大切なサイドストーリーを展開します。

 モアブのバラク王は、イスラエルが隣国のアモリと、バシャンに圧勝したことを知り恐れ、ベオルの子バラムという占い師にイスラエルを呪ってもらおうと考えます。バラク王は使者をバラムのもとに遣わしました。神はバラムに「彼らと一緒に行ってはならない、この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているのだ」と告げたので、バラムは要請を断りました。しかし王は諦められません。さらなる使者を遣わし懇願します。バラムはもう一度神に聞き「立って彼らと共に行くがよい。しかしわたしがあなたに告げることだけを行わねばならない。」と答えを受け出かけました。

 ところがなぜか神は抜き身の剣を持ったみ使いにバラムの行く手をふさがせます。しかしバラムにはそれが見えません。バラムを乗せたろばはバラムがみ使いに殺されないよう3度もその道を避けましたが、バラムは怒ってろばを3度打ちました。神に口を開かれたろばから「ひどい!3度もわたしを打つとは。」と言われて初めてバラムの目は開け、み使いが見えました。バラムは自分には見えていないことが異なる立場から見え、そして知らず知らずのうちに守られていることをろばから学んだのです。

 これはまずバラムに与えられた比喩です。神が祝福する者をだれも呪うことはできない。神が祝福する者を呪う道には目に見えない滅びが立ちふさがっている。そのことに気づくにはもうひとつの立場から、開かれた目で見る必要があるのです。この比喩に気づいたバラムはイスラエルを祝福する道しか自分にはないということをはっきり理解しました。そして今度は目に見えない滅びに向かおうとするバラク王をろばの目のバラムが守るのです。

 思いがけない存在から支えられたり、守られたりしていることに気づくことは、思いがけない祝福であると同時に、わたしたちも思いがけない他者を祝福する者として招かれていることに気づかされます。
 「失敗の歴史に学ぶ」
■2025年7月20日(日)    松坂 有佳子 牧師
■聖書:民数記 13章1〜3、17〜20節
 わたしたちはひとりひとりに信仰を与えられていますが、それぞれがバラバラに歩んでいるのではなく、教会という共同体として共に歩んでいます。わたしたちは教会という共同体で、現代の荒れ野を共に歩むように導かれているのだと思います。リーダーを立て、目的や目標を定め、互いの平安や祝福を祈り支え合いつつ力を合わせて進んでいきます。周りに考え方や価値観が異なる他の共同体や人々がいる時にも、どのように接し、関わっていったらいいのか、悩みながらも課題を語り合い、祈り合って、共同体を進めていきます。そこには大小さまざまな失敗や過ちも生まれます。それがわたしたち人間とその共同体でしょう。だからこそそんな失敗や過ちの過去から学ぶことは何よりも大切なことです。

 聖書も大小さまざまな失敗を物語っています。民数記13〜14章には、イスラエルの民が40年もの間、荒れ野を旅することになった理由、出エジプトした大人世代が約束の地に入ることができなくなった失敗談が記されているのです。これまで導き守ってきた神を信じることができず、不平不満ばかりをリーダーにぶつけ、その罪を指摘されても、まだ悔い改めることができず、破滅へと向かってしまいました。モーセの制止にも耳を貸さず無謀な戦争をしかけ、打ち負かされたのです。

 13章2節、17節の「偵察」と訳されたトゥールという言葉は、「探求する、歩き回る、商売する」というもっと広い意味があるそうです。神がトゥールしなさいと言ったのは、モーセが指示したような意図ではなかったのかもしれません。どんな人々が住んでいるのか、どんなところなのか、あちこち歩き回って出会いながら、助けてもらいながら、どこに入って行ったらいいのかと探求しなさいと言われていたのではないでしょうか。

 実際にイスラエルのカナン定着の歴史的過程は、ヨシュア記が語るような全イスラエルによる一回的な共同行為というのは虚構であり、各部族がそれぞれ異なる方法により、ある時は戦闘行為によって、ある時は平和的に、定着していったとの推論が共有されています。(『新共同訳旧約聖書注解@』より)
 「私も逆転しない正義を見つけたい」
■2025年7月13日(日)    松坂 有佳子 牧師
■聖書:民数記 11章1〜15節
 幼い子どもたちに大人気のヒーロー・アンパンマンの作者やなせたかしさんと妻ノブさんをモデルにしたNHK朝ドラ「あんぱん」。戦地から復員した喬は4年ぶりにノブと再会しました。戦争のイデオロギーに巻き込まれ「愛国の鑑(かがみ)」ともてはやされて自分を見失い、そんな自分に深く傷ついていたノブに、喬は言いました。「正義なんてものを信じちゃいけないんだ。そんなものは簡単にひっくり返るんだから。でも逆転しない正義があるなら、自分はそれを見つけたい。」

 子どもの頃からずっと「たっすいがー」(高知弁で弱虫)と言われてきた喬でしたが、戦争とそこに巻き込まれた人たちを自分の目でまっすぐに見つめ、自分なりに考え抜いて、たどり着いた考えでした。この考えがアンパンマンを産みだす源になっていくのでしょう。

 民数記は、エジプトで奴隷にされていたイスラエルを、神がモーセたちを用いて導き出し、約束の地へと誘う、自由への道のりのはずですが、ここにも簡単に逆転してしまう正義が描き出されているように思います。過酷なファラオの支配から脱出し、自由を得たはずのイスラエルの民が、不平不満タラタラで神とモーセに反抗します。そしてそれに憤り、メラメラと怒りの火を燃やす神。間に立たされた中間管理職のようなモーセはヘロヘロで弱音を吐きまくります。

 単純に図式化された人々に、「神の正義」が神の民への暴力として振るわれています。戦争を正当化した政府が、自国の若者の命や民間人の命を軽視することとも似ているように思います。暴力の正当化は、簡単に内側にも牙を向くのです。

 またこれまではモーセ、アロン、ミリアムのきょうだいがチームで民を導いてきましたが、この後モーセへの一極集中が進み(12章)、それがヨシュアへと受け継がれていきます。この流れはカナンの地への進軍を強力に血塗られたものとし、議論の余地を排除していきます。

 たっすいがーの喬が戦争を体験して気が付いた「偽りの正義」。わたしたちは「真の義」をイエス・キリストの死とその生き様によって見据えなくてはなりません。
 「荒れ野にて」
■2025年7月6日(日)    松坂 有佳子 牧師
■聖書:民数記 9章15〜23節
 わたしたち家族は、子どもたちが小さい頃、よくキャンプをしました。教会の皆さんや子どもたちの仲間やその家族と行くこともありましたし、遠く本州や九州からわたしたち家族を訪ねてきてくださる方々と北海道の自然を満喫するキャンプをすることもありました。

 わたしは当初、いちいち手間がかかるキャンプはどこが楽しいのかと思っていました。でもだんだん、不便で手間がかかるからこそ、子どもたちも含めてみんなで力を合わせる必要があって、テレビも、電子ゲームも、電話もメールもない中で、神さまが造られた世界を味わうことができると気づきました。またそこにいる人とたっぷりの時間と空間を共有して、普段気づけなかった姿や成長を発見したり、じっくり対話をすることもできます。

 子どもたちはあっという間に大きくなって時間が合わなくなって、キャンプしたくてもできなくなって、そんな時間がいかに貴重で贅沢なものであったか実感しました。 大人にも子どもにも、実は不便で面倒くさいことを自分でやってみる、協力してやってみる、そんな中から学べることは無限にあるのでしょうね。

 「民数記」のヘブライ語聖書でのタイトルは「荒れ野にて」です。エジプトを脱出したイスラエルが約束の地を目指して旅をした40年間について記したもので、イスラエルの人たちはその荒れ野での体験から学んだこと、味わったことを大切に継承しようとしたのです。

 荒れ野を行く彼らの命綱は神でした。兵役に服すことができる男性だけで60万人、非戦闘員をくわえれば200万人くらいの計算になるでしょうか。老若男女混在の、わがままで間違いの多い雑多な人達の群れが、どんな風に荒れ野を旅して、自分たちに本当に大切なことは何かを学び取って行ったのか。遺された記録の断片から、21世紀を生きるわたしたちは何を学べるでしょうか。
 「コイノニア−神が導かれる交わり−」
■2025年6月29日(日)    松坂 有佳子 牧師
■聖書:フィリピの信徒への手紙 4章2〜20節
 入院している娘から「職場の先輩が母に成りすましてお見舞いに来てくれた(笑)」というLineが入りました。姉ではなくて母になりすます世代の先輩もいるのかと思いつつ、とても心強くありがたいです。今回のことで子どものこととなると自分の事以上に思い煩う傾向を改めて自覚させられています。親として当然だと思いつつ「親として当然」の正体についても逡巡させられています。ひとりの人の人生を支え、応援する働きを「親」や「家族」に閉じ込めてしまう傾向が強くなってきていると思うからです。牧師の仕事は、人や世の中の栄枯盛衰、悲喜こもごもに寄り添い祈ることだと考えているのですが、入院や入所している教会員を訪ねることが認められないことが多くなってきているのです。そういう時はわたしも家族に成りすます手を使います。しかしなるべくならこんな手は使いたくありません。牧師として大手を振って医療にはできない祈りの働きをしたいからです。

 「人知を超える神の平和がわたしたちを守る」というパウロの言葉は、信仰や祈りは、社会的に認められていることの範囲を超えて、多様で、豊かで、深いものだと言っているのだと思います。パウロ自身も人生の危機のただ中で「人知を超える神の平和」を経験し、励まされたからこそ、投獄されながらも、希望を失わず、自由です。神はわたしたちの想定を超えて、わたしたちのために働いてくださっており、わたしたちの限界を超えて神の方から突入してくださるということでしょう。

 わたしたちはこの神のみ業を喜び待ち望むコイノニアを作っているのです。コイノニアは「交わり」と訳されることが多いのですが、聖書の中には豊かなコイノニアのイメージが語られています。今日の箇所では「苦しみを共にする」(14)、「もののやり取り」(15)と訳されています。持ち物をささげて協力したり、誰かの働きを援助したり、福音宣教が、具体的な援助によって育てられ、さらに分かち合われていくのです。