![]()  | 
    
ルターの歩いた道
![]()  | 
       1483年、マルティン=ルターはザクセン地方のアイスレーベンで、ルター自身の言葉によれば「農民の子」として生まれました。実際はルターの父は農民出身ながら鉱山経営で成功し、いわば「中小企業の社長」ほどの身分だったと思われます。 1546年、ルターが63歳でなくなったのもこのアイスレーベンでした。  | 
    |
![]()  | 
       1501年、ルターはエアフルト大学に入り、法学を勉強しました。これは当時のエリートコースでした。ところが卒業間際、ルターは大学を退学し、修道院に入ってしまいます。あるところで落雷にあい、恐怖に駆られて思わず「命が助かるなら修道院に入ります!」と神に誓ったことを果たしたのでした。この修道院でルターは「人は信仰のみによって義とされる」との確信に到達します。  | 
    |
![]()  | 
       1508年、ルターはヴィッテンベルク大学
       
  | 
    |
![]()  | 
       1521年、ルターはヴォルムス帝国議会に召喚され、皇帝カール5世から説の取り消しを要求されましたが、毅然としてこれをはねのけました。「我ここに立つ。神よ、我を守りたまえ。アーメン」 1868年にヴォルムスに造られたルター記念像は、ルターのまわりを宗教改革の先駆者フスやサヴォナローラたちがとり囲んでいます。  | 
    |
![]()  | 
       皇帝から国内におけるすべての権利を奪われたルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒによってヴァルトブルク城にかくまわれ、約9カ月の間身
       
  | 
    |
![]()  | 
       以後、農民戦争の指導者ミュンツァーや人文主義者エラスムスとの対立・論争を行いつつ、ルターはドイツにおけるプロテスタント教会の組織化に努力し、また最後まで大学教授として講義と著作活動を続けました。1546年、ルターは紛争を調停するために旅行した生まれ故郷のアイスレーベンで、心臓発作のためその生涯を閉じました。  |